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批判されるべきでないステキな功利主義

「批判されるべきでないステキな功利主義
#1 はじめに 
功利主義は、現在においても法案を作ることや裁判においても重視される考え方である。たとえば、日本国憲法第12,13,22,29条に規定された人権の制約原理である「公共の福祉」はまさにその考え方が用いられている。一方で功利主義は多くの批判を受けがちである。今回は、功利主義が批判される理由を明確にしていくとともに、功利主義の歴史をたどってどのように形を変えたのか、またなぜ功利主義者は主張をするのかを解説していきたいと思う。
 ※功利主義とは・・・児玉聡(2012年)によると、功利主義はジェレミーベンサムが最初に定式化した倫理思想で、彼の考えを一言で言えば「最大多数の最大幸福」を指針として行動せよ、というものだ。

#2 批判される不完全な功利主義
ケース1 トリアージ
トリアージとは災害などで大勢の負傷者が出た場合、その負傷者の負傷度によって救命の優先度をつける手法のことだ。JR福知線の脱線事件の時には多くの人を救うのに役立った。
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引用)http://dr-urashima.jp/pdf/besttriage_5.pdf
できるだけたくさんの命を救えるという見方に対して、命に順序をつけるという行為は非人道的だと考える人によって批判される。
このように、功利主義の考え方の裏に、非人道さや、倫理に反しているなどと感じられた場合、そこには一つの倫理観と一つの倫理観のぶつかり合いが生じ、批判的な目で見られる。


ケース2 HeLa細胞
Hela細胞とはヒト由来の最初の細胞株であり、1951年に子宮頚がんで死んだ30代の黒人女性の腫瘍から分離され株化され、様々な医学技術に貢献されている。(iPS細胞の誕生など)
しかしHela細胞はがんを患った女性の同意、および配偶者の同意を得ずに違法に採取された物なのです。
さらに、その功績とは裏腹に女性の死後配偶者には利益も還元されなかったという物である。
確かにHela細胞ができたことで多くの人が救われ、未来の医学技術の向上に貢献したのは事実であるが、インフォームドコンセントを無視した行為であるのもまた一つの事実である。
トリアージと同じように、倫理、道徳的価値観から批判を受けてしまう。
実はこのような、
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道徳的でない功利主義は完璧な功利主義とは言わない
現代の功利主義現代の功利主義はひたすら最大多数の最大幸福のことばかり考えて行為する「功利主義マシーン」である必要はない(児玉聡 2016)とあるように、過激な功利主義者は真に懸命な功利主義者とは呼ばないのである。






ケース3 衆議院議員杉田水脈氏のLGBT批判
とある議員が新潮45に寄稿した文章がSNSなどを中心に大炎上した件である。
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引用)https://www.asahi.com/articles/ASLBV5TX5LBVUTFK01H.html
彼女の意見は要約すると「LGBTに対する支援は生産性のないものなので馬鹿馬鹿しいので止めるべき」ということです。この記事にもある通り彼女は自分の言葉の表現を不用意だったと反省していることがわかるが、性少数者に対しての差別や偏見は置いておいて、LGBTに対する支援は金の無駄遣いと考えたのは、紛れもなく事実だと思う。彼女はやはり道徳的な見方ができていなく、不完全な功利主義を主張している。しかしそれより重要なことは、彼女はそれ以前に最大幸福の計算ミスをしていることであると私は思う。LGBTの方々に対する配慮はやがて、徐々に増えている性的少数者の社会進出を促進させ最終的な利益はある。ということだ、さらに性的少数者に対する態度がもっとおおらかなものになれば、外国人旅行者や永住者も現れ、結果的に幸福な世の中になるはずだと私は思う。
行動と結果だけが問題ではない。やはり人格も無視できないのだ。(マイケル・サンデル 2011 )とあるように、功利主義とは最大多数の最大幸福だけの問題ではないことがわかる。
このように最大幸福の計算ミスがある場合もしくは、人格の否定のある功利主義も不完全な功利主義と呼べる。

ケース4 菅直人元首相の最小不幸社会
菅直人元首相は「最小不幸社会」という功利主義的な発想を持って政治を行っていた。しかしこれに対して、社民党福島瑞穂党首は次のように批判をした。

消費税の引き上げはとりわけ中低取得者に厳しい。首相は「最小不幸社会」というより、「不幸しわ寄せ社会」を作っていこうとしているんじゃないか。米軍基地も核燃施設も原子力発電所もどこかに集中させている。
引用)時事通信 2010,07,05

この菅直人氏にとっての功利主義は、大人数に幸福を与えている代わりに、一定の少数者に対して非常に重い重荷を与えてしまっている。
今日においては、「最大多数の最大幸福」というスローガンは、ややもすると「少数派の犠牲の上に多数派が幸福になるための思想」と理解されがちだが、もともとの精神とはそれとは反対のものである。
むしろ功利主義とは政策決定において、それまでとはほとんど無視されていた労働者、奴隷、女性など、多くの人々の幸福も等しく考慮に入れるべきだと主張する立場だった。(児玉聡 2012)とあるように、現代社会で功利主義を間違って捉えて批判する人や間違って捉えて行う人が多い。

以上のようなケースをまとめると
① 道徳観、倫理観的な問題がある場合
② 未来を見据えていない幸福計算がある場合
③ 人格の否定がある場合
 ④少数派の犠牲の上に多数派が幸福になるための思想という勘違いがある場合

このような状態の不完全な功利主義は批判されてしまう。
しかし定義され始めの功利主義は確かにこのような常識はずれの結論を支持していたことも事実である。

#3 洗練されていく功利主義
ケース1ウィリアム・ゴドウィン
#1で紹介したジェレミー・ベンダムと同時代の功利主義者ウィリアム・ゴドウィンは自身の過激な功利主義の考えを改めた人物の中の一人である。。
功利主義について考える上で最も有名な問題が暴走するトロリーの問題である。
Q.トロリーが暴走している。もしあなたが何もしなければ、線路に縛りつけられた五人の人々は轢き殺される。もしあなたがスイッチを切り替えて、トロリーを別の線路に引き入れれば、五人は助かる。ただし、別の線路に縛られている一人が轢き殺されることになる。あなたはスイッチを切り替えるか否か。
この問題は功利主義について考える上であまりに有名であるが、この問題の類題として次のような問題がある
Q.火事の建物から一人しか助け出せない場合に、あなたの父か「ハリーポッター」シリーズを構想中のJ・Kローリングのいずれしか助けられない場合に、あなたはどうすべきか

この問題に迷うことなくJ・Kローリングを助け出すことを選択するのがゴドウィンである。
ゴドウィンは「人を贔屓しない」ことを重要視して、自らの家族よりも社会の幸福を第一に考えるような過激な功利主義者であり、「私の(my)」という言葉(偏愛という行為)に道徳的重要性はないと考えたのであった。
彼の功利主義は先ほど述べた不完全な功利主義の①に相当する不完全な功利主義である。
しかし、彼はのちにこの考え方を改めるのであった。
その理由のうちの大きなものは彼の「愛」に対しての意識の変化であった。
彼は自身の功利主義論を発表した後とある女性と恋に落ち女性に結婚を持ち寄られて結婚する。「私の(my)」といった言葉の重要性に批判していたので無論、結婚(という社会通念)には反対の意思を示していたようだがしかし、彼は立派な功利主義者であった。彼は人の幸福のために自分の信念を曲げることをそれほど問題に感じていなかったのだ。言い換えれば、彼は幸福を最も重要だと認識していたということだ。自身の幸福追求論を肯定するばかりで実際は自分の説いた功利主義は真に人を幸せにできないのではないか、と自分の考え方を是正した瞬間であった。この後実際にゴドウィンが出版した論文では以下のような彼の偏愛に対しての考え方が述べられている。

個人的な愛情の絆を持つとき、我々の心は、それを剥ぎ取られた時と比べ物にならないほど、生命が隅々に行き渡って、生き生きとした状態に保たれる。そして人が生きた存在であることは、煉瓦や石としてあるよりも素晴らしいことである。(『政治的正義』第3版より引用)
このように人の考え方は根本的な部分は不変的であり根強いものであるが、人との繋がりや主張のぶつけ合いによって流転する部分もあるのだと思った。そして人の考え方が変わる瞬間は時に素敵なことであると感じた。

ケース2 J・Sミル
ジェレミーベンサムの最大の弟子として知られているJ ・Sミルだが彼も紛れもなく功利主義者である。しかし彼の主張はベンサムとは異なる点があった。それはベンサムのように快楽の量で幸福を考えるのではなく快楽の質で幸福を考える、というものであった。

ベンサム
  快楽×n=幸福
ミル 
 快楽×質×n=幸福

確かにこれは納得できる。ベンサムの考え方では幸福になるならばマスターベーション(自己満足)をし続ければいい、ということになるが、一般にそんな人は人として見なされない。大事なのは質であり人助けなどのような満足とともに優越感があったり、快楽と共にヒエラルキーの上昇が起こったりする方が人間的には大きな快楽に思える。ミルはこれに関して動物と人間を比較しながら説いている。
満足した豚であるより、不満足な人間である方がいい。肥えた愚か者であるより、痩せたソクラテスである方がいい。(ミル自伝より引用)

一般的に師匠のことを否定(ミルの場合部分否定)することはあまりないと思うが、ミルのこの主張は功利主義という考え方をさらにより良いものにしたと思う。
このように、未来へ継承されていった功利主義は弟子による愛のある批判によって新たな形へと変わっていったことも事実である。
このような歴史をたどっていった私は現在において功利主義を批判するというのは、実は批判しているように見えて実際はこのような歴史を辿る前の不完全な功利主義を批判していて、少しズレている(言い方が難しいが古典的?な)意見なのかもしれないのではないかと思った。

#4 功利主義はステキなものだ。(まとめ・考察)
今日の人間は幸福について殆ど考えないようである。(三木清 1978)
ともあるように、現代の人間は幸福について妙に消極的である。
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(引用 総務省 衆議院議員総選挙における年代別投票率の推移)
この表を見てわかるように、以前は護憲運動まで起こして手に入れた選挙権も選挙率が昭和54年から平成29年にかけて20%も減少しているという状態だ。
私は現代の人々は積極的に主張をしていないと思う。選挙率の件もそうだが、普段の授業のディスカッションやホームルームでの話し合いもなかなか捗らない。
しかし、ベンサムやミル、ゴドウィンあるいはそれを批判した思想家は主張をし続けていた。これはただの頑固な思想家のぶつかり合いではないと思う。特に功利主義者は人人はどうしたら幸せになるかを考えて、考え尽くしていたということだと思う。
批判を受けてよりよい形に進化をしたり、人生の中で大切なものに出会い変わっていった。歴史をたどっていくとそれはただの能率とかそういう計算じみたものでなく本当はとっても暖かいものなのではないかと強く感じた。
今私たちは幸福だからこそ幸福に対しての意識が低いのかもしれない。だけど今ある幸福は先人たちの知恵や批判のしあいによってできた紛れも無い成果であることを忘れずに生きていきたいと思った。
そして、主張に積極的であることも大切であると感じた。


#5 参考文献
・児玉聡 『功利主義入門-はじめての倫理学』(ちくま新書 2012)
・マイケル=サンデル 『これから正義についての話をしよう』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫 2011)
三木清 『人生論ノート』(新潮文庫 1978)
・『政治的正義』ウィリアム=ゴドウィン
・『ミル自伝』 ジョン=ステュアート=ミル
・『杉田氏、不用意に表現用いた「生産性」寄稿に見解』(朝日デジタル2018.10.28)
時事通信 2010.07.05
・ベストトリアージで人命を救え
http://dr-urashima.jp/pdf/besttriage_5.pdf
総務省 衆議院議員総選挙における年代別投票率の推移